天人唐草 山岸凉子[manga]

天人唐草 (文春文庫―ビジュアル版)

天人唐草 (文春文庫―ビジュアル版)

真の「恐怖」とは何だろう?

流血シーン? 快楽殺人を犯す犯罪者? それとも、死んだはずの人間が霊となってあなたの前に現れることだろうか?

そのどれも、確かにたいへん怖い。だが、よーく理性的に考えれば、怖くなくなってくる。理性的に考えれば、どんなものであっても、大して怖くはなくなってしまうものである。怖いのは「分からない」からであり、それは「深く知る」ことによって克服できるものなのだ。たとえ犯罪心理学であっても、心霊学であっても。

だがそんなものは、真の「恐怖」と呼ぶに値しないのではないだろうか。真の「恐怖」と呼ぶべきは、たとえそれが理解可能であったとしても、心の底から悪寒を感ぜざるを得ないようなものではないだろうか。

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「ボクは●●です」
そう、あなたは産まれた時から●●だった。これまでずっと両親は「●●ちゃん」と呼んでくれたし、あなたに近い人はみんな「●●さん」と声をかけてくれていた。だから、あなたが●●だと自分で思い込むのは当然であるし、もしかしたら自分が●●であることに誇りを持っているかもしれない。そこまでいかなくとも、少なくとも自分が●●であることに何がしかの安心感は抱いているはずだ。
ところが、ある日突然こう言われたとしたらどうだろう。
「お前は本当は▼△なのだ」
そんなはずはない!あなたは抗議するかもしれない。だが、その抗議を聞き入れてくれる者は誰もいない。今まであなたをちやほやしてくれた両親や知人が消え去ってしまい、あなたの周りに見る顔はどれも知らない顔ばかりである。とても怪訝そうな顔でこちらを見て、またぼそりとこう呟くのである。
「お前は、本当は▼△なのだ」
世界中の人間が、あなたに指さして言う。
「お前は、本当は、▼△なのだ」
あなたの中で、大事な糸がプツンと切れるのに、そう時間はかからないだろう。

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真の恐怖とは、「関係性」が断ち切られてしまうことだ。あなたと特定の個人(主に肉親・家族)、あなたと社会との関係性が断ち切られてしまうということこそ、人間にとって最も恐怖すべきことなのである。もし、それが切れたら人間としての自我を保つことができなくなるくらい、つまり、いつ発狂してもおかしくないくらいに、それは人間にとって大事なものなのである。

ところでここだけの話だが、実はあらゆる「関係性」というものは断ち切られてしまっている。夫婦は互いに内緒でそれぞれの浮気相手の元へ走り、あなたの友人は陰であなたの悪口を言っている。そしてあなた自身も、メールでその友人の悪口を書き付けて、1人ほくそ笑んでいる。

だが、我々はそれを見て見ぬフリをしている。自分が「関係性」を断ち切られていることに敢えて気付いていないフリをしているのだ。ある者は、もう取り返しがつかないくらいに深みにはまりこんでしまっている。その人は、笑顔で今日も学校や仕事に通うかもしれない。だが、ほんの些細なきっかけで、内面の狂気は溢れ出してくることになるだろう。

本短編集に収められた短編の主人公たちは、いずれも「関係性を断ち切られてしまった者たち」である。自分と世界との距離はますます遠ざかり、自分はどんどんと何者でもなくなってゆく。それに薄々気付きながらも、未だにかつて「他ならぬ自分だと信じていた存在」であるという気持ちをどうしても捨てることができない。やがて、それを繋ぎ止めるためならどんな行動をも厭わないようになる。

主人公たちがどういった結末を迎えることになるのか………もし未読の人がいるとしたら、それは是非自分の目で確認して欲しい。決してサッドエンディングばかりでもない。だが、勿論、ハッピーエンディングばかりでもない。いずれにせよ、この傑作短編集で、本物の「恐怖」と「狂気」に触れることができるかもしれない。