「おねがいツインズ」第5・6話

「ハーレムラブコメ」が提示するものは「幸福な共同体性」であることは先に書いた。この共同体における関係性をもう少しだけ説明すると、主人公(男の子)と周囲の女の子の関係性は「友達以上恋人未満」と言えるだろう。また、「疑似家族」的な関係性であるとも言える。このややこしくも曖昧な関係性をどういった匙加減で描いていくかということが、「ハーレムラブコメ」の肝となる。

藍より青し〜縁〜」では「敢えて踏みとどまること」、すなわち、関係性を明確にせず放置しておくことで「幸福な共同体性」の維持を図ろうとしていた。対して「おねがいツインズ」という作品では登場人物3人のヤヤコシクアイマイな関係性を、いずれは解決されなければならない問題として提起されている。つまり、「敢えて踏み込む」という匙加減をこの作品は選択したことになる。

勿論、本気で男女の恋愛関係を真っ正面から描こうとしている訳ではない。そうでなければ、(華恋はともかく)深衣奈と麻郁はキスだけでなくSEXに発展してもおかしくないはずである。また、深衣奈と華恋が結ぶ恋愛同盟というのも高校生にしては余りに幼すぎる発想のように思える。

しかしだからこそ、この作品は「ハーレムラブコメ」の「幸福な共同体性」を守りつつ、主役3人の関係性の発展・成長を描いていく青春ドラマとして(これまでは)展開できているのだ。「幸福な共同体」を描きつつも、それは「卒業」されるべき場所であり、いずれは各人が選択を迫られることになることを、登場人物達も自覚しており、また視聴者にも明示的に示されるのだ。

「肉親かもしれない。他人かもしれない」という何度も繰り返される問いかけはこの作品で非常に重要な意味を持つ。本来の「ハーレムラブコメ」は「肉親であり、恋人でもある」という関係性を肯定してくれるものである。また、それがゆえに視聴者を心地良い気分にさせてくれるものだ。しかし、「おねツイ」においてはこの曖昧な関係性は決して心地よいものとして描かれていない。むしろ、曖昧であるからこそ、個々人がとても苦しい、ツラい想いをしているのだ。

「未決定の状態」の描かれ方が「藍青」と「おねツイ」では非常に対照的に描かれている。
「藍青」第2話で、ちかが定期に入れていた薫の写真を友人に見られて、彼氏と間違われてしまう場面がある。ちかは即座に否定すればいいのだが、何故かそうしようとしない。それどころか、二人が彼氏(だと思い込んでいる)薫を一目見ようと遊びに来た時に、あれこれと画策して二人に薫と出会わさないようにする。ちかの行動には、「薫を彼氏であるとはっきり否定しない」ことで、「薫と自分が彼氏になる可能性があるかもしれない」可能性を残しておく意味を持っている。「未決定の状態」であるからこそ、様々な可能性を残しておくことができるのだ。(それは永遠に「可能性」のままなのではあるが)
対して「おねツイ」では、「未決定の状態」というのは非常にツラいこととして描かれている。「肉親かもしれない」という状態が、恋愛段階へ進んでいくのを阻んでいるのだが、しかし「他人かもしれない」という状態により、二人のうちどちらかが麻郁の家を出ることになり、三人の共同生活(共同体性)は失われてしまうことになる。共同体を維持したい気持もある、しかし、恋愛に発展したい気持もある。深衣奈と華恋、二人ともがどちらか一つを選択し、どちらかを諦めなければならない。

本来、「共同体」と「恋愛関係」とは同時に成立するものではない。「共同体」とは集団の関係性で、「恋愛関係」とは個人対個人の関係性だからだ。しかし、多くの「ハーレムラブコメ」では、その二つがあたかも同時に成立しているかのような錯覚を与えてしまっている。「おねツイ」では敢えて「共同体」か「恋愛関係」かキャラクターに選択を迫ることで、「ハーレムラブコメ」というジャンルの世界観を根底から覆すような物語を展開してみせる。それをあくまで「ハーレムラブコメ」の中で行っているのが、「おねツイ」の新しく、面白いところだと思う。うん、いいと思うな。第5話から第6話にかけて、大分持ち直してきた感じだ。このまま頑張って欲しい。