映画 壬生義士伝

新撰組を舞台にした映画。なんかやたらと大河ドラマ新撰組!」と役者がカブっているのでビックリ。

佐藤浩市斉藤一』はまぁいいとして『沖田総司堺雅人』はビックリ。沖田のキャラクターも典型的な『クールで美少年』って感じではなく、『無邪気で無鉄砲』な性格も大河ドラマ版と似ている。三谷幸喜はこの映画を観て堺雅人をキャスティングしたんじゃないか、と邪推したくなるくらいだ。

映画自体には欠点も多い。美術をじっくり見せたいがための長々としたカットや、作品全体を貫く過剰なセンチメンタリズム、それに余りに冗長すぎるラストシーンはひどく退屈である。だが、中井貴一@吉村貫一朗と佐藤浩市斉藤一の演技合戦と、前半のチャンバラシーンは、上記の欠点を補って余りあるだけの満足感を与えてくれた。

昨年公開されたこの映画といい、今年の大河ドラマといい、最近になって「新撰組」を題材に扱った映像作品が増えてきているようだ。これは何故か、と考えると、やはり「負けの美学」を描くのに最適な題材だから、ということになるのではないかと思う。今の時代こそ、「どれだけカッコヨク負けるか」を求められている時代はないのではないか、と思う。もちろん「勝利すること」は、ビジネス書から少年ジャンプに至るまで、世の中の至高の価値観(もしくは世の人々の最終的な目標)として、現在でもあちらこちらで崇めたてられまくっている。

だけどさ、それって嘘じゃん。

本当は「勝ち負け」なぞどうでもいいことのはずなのである。「勝ち負け」は単なる結果に過ぎず、それ自体を目標にするものではないのである。もし「勝利」することを目標として考え始めれば、必ず多大な犠牲が産まれ、また本人の人格形成と人間関係に大きなひずみを与えることになる。ちょうど今のブッシュ政権小泉政権のように。

今の日本政府(もしくは親米主義者たち)の状況は、まるで負けが込んだギャンブラーのようである。「勝つこと」を考える余りに、ますます混沌に嵌り、どんどんと「負け」が込んできている、という状況は皮肉という他はない。そんな下らない状況に陥るくらいなら、たとえ「負け」と分かっていても自分が信じる道に進んだ方が良い。「勝利することだけを目標にして得た勝利」というのは、その下に多大な犠牲が産まれると共に短命にして終わる場合が多い。しかし「自分の信念に基づいた上での敗北」は、たとえ敗北であっても次に、後々の何世代にもその思想や想いを繋げていき、活かすことができる。

長引く不景気や、イラク戦争など、最近は暗いニュースが多い。だからこそ(僕を含めた)多くの新撰組ファンは、サクセス・ストーリーに現を抜かすよりも、自分の信念に基づいて儚く散っていった男たちに今の自らの境遇を重ね合わせやすいと感じるのだろう。「勝利=利益」を追い求めていたバブル時代のツケを、今まさに支払わされている我々は、現在の苦境、そしてこれから更に訪れるであろう受難の時を受け入れる覚悟をする時代が来るのかもしれない。現在でも私たちの周囲には、「勝ち組に乗ろう」だとか何だとかいった、威勢がよいが脳天気な言葉が溢れかえっている。だが、そんな言葉に惑わされるより先に、私たちはまず自分の足下を見つめ直す必要があるのではないか。そしてそのためには、たとえどんなに困難な状況になったとしても容易に意志を曲げない、強い信念が必要なのではないか。政府であれ、企業であれ、そして私たち一人一人の個人であれ。

と、何だかすごく大きなスケールのことまで考えてしまった。たまにはこーゆーのもいいな。っつうか就職活動が続いてナーバスになっているからこそ、こういった考えは今の俺にとって非常に大事なのである。