GUNSLINGER GIRL 第5話 「約束 - promessa - 」

殺伐とした設定。ハッピーエンディングとは決して言い難いオチ。しかし、この作品がもたらす救済感は、これが明らかに「癒し系」の作品であることを示している。逆に言えば、ここまで「ギリギリ」の世界を描かないと、現在では癒しとしてのリアリティーを保つことができない、ということなのかもしれない。

「癒し」とは何か。私はこれを「熱血」と逆の位置として定義づけたいと思う。「熱血」というベクトルは、「自分たちには世の中を変える力がある」「世の中をより良い方向に変えていこう」とするものだろう。「熱血」性を持った作品には、演じる側にも観る側にも強いテンションが要求される。そのテンションこそが、(「燃える」という形容詞で表現されるように)「熱血」作品の快楽となるのである。

対して「癒し」作品は、日々の緊張(テンション)を緩和させ、安らぎを与えることを目的としたものである。熱血と逆ベクトルを持つものとして考えた場合、少し意外に思える結論が導き出される。すなわち、「癒し」とは「自分たちには世の中を変えていく力はない」「だから、世の中はこのままでいい」とするベクトルである。

GUNSLINGER GIRL」に登場する少女達は、観客の目からはたいへん不幸な境遇に置かれているように見える。「暗殺兵器」として利用されたり、「条件付け」によって心をいじられたり、また今回の話の主役であるクラエスのように、「暗殺兵器」として失格の烙印を押された場合には、「義体」の強度を試すための「実験動物」としての日々を送ることになる。

だが、それは「観客側」が勝手に思っていることである。少女たちにとっては、社会福祉公社という組織と、自分の担当官、これが全ての世界である。自分が住んでいる世界と、他の子供たちが住んでいる世界を比べることはできないし、その子たちと入れ替わる事ができない以上、比べても意味がない。それに、たとえ比べたとしても、少女達がセリフの中で述べているように「自分たちは(他に不幸な子供がたくさんいることを考えたら)幸せだ」と本気で思うことだろう。

「自分たちの現状で、満ち足りる」。少女たちは、このシンプルで、当たり前の「真実」をよく知っている。何より少女たちには、自分たちを生活させてくれる「保護者」がおり(たとえその「保護者」が少女たちを危険な目に遭わせようとも、その事実は揺るがない)、一緒に仕事を共にする「友だち」がおり、そして自分が忠実に仕えるべき担当官がいる。それは、「条件付け」によって担当官の記憶そのものを消されてしまったであろうクラエスも、変わらない。「菜園の技術」という本の知識を通して、クラエスは自分でも気付かないうちに、密かに公社に殺された自らの担当官ナヴァロとの想い出に浸ることができるのだから。

ヘンリエッタがクラエスにこう質問する場面がある。
「クラエスはいつも、ひとりぼっちで寂しくないの?私はジョゼさんがいるから………ジョゼさんがいなかったら、私………」
その質問に対し、クラエスヘンリエッタを真っ直ぐに見据えて、こう答える。
「幸せなおチビちゃん。私が孤独であるかないかは、私が決めるわ」

誰かが、誰かの境遇に対して「幸福だ」「不幸だ」という意見を述べたとしたら、それは傲慢というものであろう。「幸福」「不幸」という概念は、個人の内面にしか存在しないものだからだ。そして、たいていの場合、「不幸」という感覚を持つ物は、周囲と自分とを「比較する」ことによって、自らを「不幸」であると思い込もうとする。クラエスも、他の義体少女たちも、そんなバカな真似はしない。彼女は自分たちが置かれた状況を、(我々が勝手に考えているよりも)遥かによく知っている。その上で、やはり、自分たちは「幸福だ」と本気で考えている。その少女たちと気持が同調する時、観客は初めてこの作品の持つ「癒し」の作用に気付くのである。