フランケンシュタイン('31)

原作の少々観念的な作風を上手く咀嚼して、当時の観客達に分かりやすく伝えるよう努力しているのが分かる。もっと原作を改変しまくりの適当な作品かと思っていたのだが、思っていたよりマトモで、安心致しました。フランケンシュタイン博士の狂気をきちんと描いたこと、また、怪物が本来は心優しく、ただ「防衛反応」として人々を殺めたに過ぎないことなど、きちんと押さえるべきところは押さえられていた。

特に、少女との場面は秀逸であった。少女は怪物を見ても怯えることなく、一緒に遊ぼうと誘う。少女が花びらを湖に投げると、花びらがプカプカと水に浮かぶ。怪物はそれを見て、自分も花びらを投げると、やはりプカプカと浮かぶ。怪物はそれを見て大喜びした後、突然、少女を川に投げ込む。ところが、少女は浮かび上がることなく、湖の中に沈み込んでしまう。怪物はあわてふためくが、もはやどうすることもできない………。

このエピソードを入れたことが、本作品を古典の名作たらしめている。これは、怪物は本来は無垢で、悪意のない存在であることが分かると同時に、しかし、それでも人の命を殺めてしまう危険な存在には変わりないことが示されるのだ。「人間」=「創造主」と「過物」=「被造物」との間にははっきりと境界線があり、両者がその間を越えて分かり合うことは決してできない――本エピソードは、両者の間に横たわる根元的な断絶を示しているように私には思えた。

ラストで、怪物が逃げ込んだ風車に火が放たれたところも良かった。怪物が人間に最初に抵抗を示したのも、下男のフリッツが松明の火を怪物に近づけたことによる。つまりは、「防衛」のためであったのだ。ラストで人間側の暴力になす術もなく、怪物は焼かれてしまうのだった。(って言うか、続編では何事もなかったかのように生きて、また事件を起こすらしいのだけどね)

原作とは異なり、フランケンシュタイン博士の許嫁エリザベスを殺すことはしなかったし、また、ラストでフランケンシュタイン博士がどうなったかも曖昧ではっきりと語られていない。「フランケンシュタイン家に乾杯」といって博士の父親と召使いたちが乾杯をする場面は非常に軽やかであり、それゆえに多くの観客はハッピーエンディングを予想することであろう。だが、「実際は」どうであったのか?

おそらく、制作者側はフランケンシュタイン博士が怪物に風車の上から投げられて、非業の死を遂げる、というラストシーンにしたかったのだと思う。しかし当時の平均的作品から考えると、余りに陰惨過ぎるので、それを避けたのではないだろうか。制作者側としては、「敢えてラストをはっきり示さない」がギリギリ彼らのできる「譲歩」だったのではないか。

今から考えると、余りのラストのあっけなさに拍子抜けを食らうかもしれない。だが、当時としては、怪物が小さな女の子を殺す場面だけでも、かなりの冒険であったに違いない。今からでは想像しがたいが、当時としては「フランケンシュタイン」は非常に先鋭的な作品であったことであることが想像できる。

あー、後はあんま言うことないなー。フランケンシュタイン博士って、「白い巨塔」における田宮二郎に似ているなー、くらいかなー。(まぁイメージだけだけど)後、博士の先生って、よく見ると坂上二郎に似ている。後々、博士のお父さんって、雰囲気が長門裕之に似ている。

本当にどうでもいいことばっかりだなー。どうでもいいことついでに、もう一つだけ言うと、1931年当時は今ほど「映画」と「演劇」の区別ってなかったのだろうなぁ、と思った。大がかりなセットを組んで、そのセットの上で役者が演じるのを少し離れた場面で撮影を行うという手法と、バストアップで役者の演技を撮るという手法とがほぼ半分半分であった。役者の主観映像はほぼなかった。だから、観客は常に「舞台(セット)の上で演じられる物語」を見るという意識で映画に接することになる。こういう接し方って、今の映画には存在しないか、もし存在するとしたらそれこそ「演劇的」という手法で呼ばれることになると思う。でも、当時はコレが当たり前だったのだろうなぁ。ここら辺も研究しても面白いかもしれないなぁ。<追記>

原作の「フランケンシュタイン」はSFの元祖とも言われている作品だが、そのような作品を原作に持つ映画で、「雷」が効果的に使われていたのは非常に興味深い。映画では、嵐が吹雪く夜、「雷」のエネルギーでもって怪物に生命を与えるのである。昔は「雷」=「電気」=「科学」であったのだ。この「雷」=「電気」というモチーフは後になって、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のクライマックスで効果的に使用されることになる。勿論、制作者側の念頭には「フランケンシュタイン」があったのだと私は推測している。