スクールランブル 第15話「夏と、友情と、打ち上げ花火と。」[anime]

天満ちゃん(ほとんど)不在回。天満ちゃんが不在なだけで、播磨と花井がタイマン張ったり、愛理と美琴が火花散らして口喧嘩をしたりと、これまでの平和でヌルい共同体話がウソのように、やたらとギスギスとした関係性が描かれる話となった。やはり、スクランの持つ平和なユートピア性を支えるのは、天満ちゃんなのだなぁと改めて確認。
改めて考えてみると、スクランのキャラクターはみな痛々しいほどにナイーブだ。自意識過剰過ぎて周囲がすぐに見えなくなり、自分勝手な行動をとってしまう愛里。「好き」という想いを何年も抱え続け、結局その相手に彼女ができてしまい、自らの想いを口にすることがないまま失恋してしまう美琴。天満ちゃんと自分を主人公にした恋愛マンガに自らの秘めた思いを託すが、肝心の天満ちゃんには自分の想いが一向に届くことがない悲しい男、播磨。生真面目過ぎるために、自分が空回っていることも、変態の域に入りつつあることさえ気付かない、やはり播磨以上に悲しい男、花井。
これだけナイーブで、どうかすると壊れてしまいそうにバランスが取れていないキャラクターたちが多数登場しながらも、スクランが「ヌルいラブコメ」として成立しているのは、ひとえに天満ちゃんという天真爛漫なキャラクターのおかげであろう。中心にナイーブさの欠片も見当たらない天然少女天満ちゃんを置くことで、愛理や八雲、播磨たちのナイーブさが上手い具合に吸収されていき、その結果として「ヌルいラブコメ的共同体」が築かれるという構成なのだろう。

勿論、天満ちゃんは天然で爛漫だから、愛理や美琴の悩みなど分かるはずもないし、解決できる力もない。ナイーブな人間の心が分かるのは、やはりナイーブな人間だけなのだ。だから、お互いにナイーブな人間である愛理と美琴は、自分たちから歩み寄って仲直りを果たす。お互いにお互いを認め、思いやれる2人の関係性は、「共同体の仲間」としてではなく、「1対1の友情」として描かれることとなる。

その後、天満ちゃんが大勢の仲間を引き連れて、ラストにいつもの「スクラン」に戻る。つまり、いつもの「ヌルい共同体話」に戻るのだ。

ところで天満ちゃんは絶望的なまでに相手の気持ちを推し量ることも、思いやることもできない。たとえ相手のことを考えてあげたとしても、それはことごとく勘違いであり、余計に自体をややこしくさせるためのものでしかない。むしろ、周囲の人間が天満ちゃんに強い愛情を抱いたり(播磨、八雲)、天満ちゃんを助けてあげるように働きかけてあげることが多い。天満ちゃんは純粋無垢で、無能かつ鈍感であるがゆえに、誰かと「1対1の友情」を結ぶことは決してできない。しかしだからこそ、その代わりとして、天満ちゃんを中心とした「共同体の仲間」といった関係性が自然に構築されるのであろう。

だからこそ、天満ちゃんと「1対1の関係性」を強く求める播磨のような人間には本作品の展開は非常に不幸とも言えるのである。しかしそのお陰で、それまで一匹狼であった播磨が、(天満ちゃんの勘違いで)強引に「共同体」の中に組み込まれていくという流れもあるわけで、そういう意味では、やはり播磨は幸福であるという言い方もできる。この2つの視点が交錯するところが、私にとっては、本作品の最大の魅力なのである。