月読 山岸凉子[manga]

月読―自選作品集 (文春文庫―ビジュアル版)

月読―自選作品集 (文春文庫―ビジュアル版)

山岸凉子の作品の特徴として、「関係性のねじれによって起こる悲劇」があるとは昨日述べたが、もう1回おさらいをしておきたい。
たとえば親と子供の関係性が最も分かりやすい。子供は、親に愛され、認められることによって自我を確立し、独立した個人として健やかな成長を果たすことができるようになる。ところが、親の方で子供を否定するような発言、または子供を著しく制限するような発言をしてしまうと、子供は突如として不安になってしまう。そして、何とかして親の好かれるような「いい子」になろうとする。
それで、子供がカンタンに「いい子」になり、親も満足、子も満足、となれば問題はないのだが、そう現実は甘いものではない。たいていの場合では、何かしらの「ズレ」や「しこり」が生じ、それが解決されないまま肉体だけが成長していってしまう。
その「ズレ」が極端にまで進行してしまうと、「天人唐草」の響子のように自我が崩壊し、発狂することになる。また、そこまでいかなかったとしても、明日取りあげる「鬼」に出てくるあぐりのように、トラウマとまではいかないものの、いつまでもいつまでも消えない心の「しこり」として残ることとなる。(前者の場合、「女性らしく慎ましく生きるように」という封建的な教育を厳格な父から施されてきた結果、響子は全く自分の意見を言うことのできない、引っ込み思案の女性となってしまった。父親の突然の死によって、父親が最も嫌っていたはずであったけばけばしい女性と長年不倫の関係にあったことを響子は知り、「慎ましく理想的な女性像」=「自分自身の存在」を完全に否定されてしまった。その結果、彼女の自我は崩壊し、狂人となった。後者の場合、女性ばかりの家庭に育った「あぐり」は、母親が言う「女の子が産まれたら良かったのに」という言葉が、長年彼女の心に引っかかり、彼女を傷つけてきていた)

「関係性のねじれによって起こる悲劇」の代表作として、「天人唐草」「ハーピー」「狐火」「コスモス」そして「月読」という短編集の中では「木花佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」(大傑作!)そして広い意味で捉えれば「月読(つくよみ)」もそれにあてることができるであろう。

勿論、山岸凉子には他にも様々な要素を持っている。今日はその中でも「純度100%の愛」というキーワードで話を進めていくことにする。

上記の「関係性〜」の悲劇で説明される心情は非常に複雑なものであった。だが、世の中の心情・心理が全て複雑なものではない。むしろ、単純なものの方が数多く占めるだろう。

「あなたは何故、ラーメンが好きなのですか?」「だって、美味しいもん」
「あなたは何故、古典が好きなのですか?」「だって、面白いもん」
「あなたは何故、彼の恋人なのですか?」「だって、愛してるもん」

このやり取りに対して、我々は別段面白味を感じることはないものの、全く理屈立っていたいと憤慨することもないだろう。ここには、余りにシンプル過ぎる「原因→結果」の公式がある。では、次のような「原因→結果」はどうであろうか?

「あなたは何故、人を殺したのですか?」
「殺したいほど、憎いから」
「何故、その人を憎んでいるのですか?いつから」
「会ったその瞬間から。人が人を憎むのに、理由は必要?」

いや、人が人を憎むのに、実は理由はいらない。理由をつけようとするのは、「憎悪」や「悪意」という手に負えない感情に対して我々が理解したつもりになって、安心したがっているからに他ならない。理由なしの愛情や善意がもし存在するとするならば、当然、理由のない憎悪や悪意だって存在するはずだ。ただ、相手の顔を恐怖で歪ましてやりたい、相手の腸に手を突っ込んでぶちちぎってやりたい、という想像するだに恐ろしい、全く根拠も理由も見当たらない「憎悪」「悪意」というものが、人間という生物の中には確かに間違いなく存在しているのである。何か恨みを持っている訳ではなく、幼少期のトラウマとかいうものでもなく、ただ「憎い」という純粋な感情が産まれることがある。それが、「たまたま」全く関係ない相手にぶつけられる、ということもある。認めたくないことだが、これは1つの真理である。そして、その真理を、他のどの作家も敢えて避けてきた真理を、山岸凉子はいとも平然とすらすらと描き出してしまうのであった。

美少年の純度100%の悪意が平凡な女子大生にクリティカル・ヒットしまくる「蛭子」が圧巻。「天人唐草」とはまた違う意味で、心の芯から震えが来るような本物の恐怖を感じさせる作品だ。また、40代ナイスミドルや美少年高校生を次々と性の毒牙にかけていく、わずか9歳の少女の話「蛇比礼(へびのみれ)」では、読者が今までに経験したことのないような狂おしい世界へ誘うことになるかもしれない。風呂場で全裸になった虹子が、高校生の達也に色仕掛けをかけるところは、達也ばかりではなく読者をも、踏み込んではいけない領域に立ち入り、もう2度と戻ってこれないのではないかというどうしようもない不安感を感じさせてくれる場面であった。そして、予兆どおり、主人公達はもはや手がつけられなくなるくらいに9歳の虹子に溺れていくのであった。

山岸凉子の作品は非常に面白い。と同時に、それは一種の覚悟のようなものを読者に強いることとなる。きっと、彼女の作品群は「もう戻ってくることができないような領域」「知らない方が良かったかもしれない真理」を次から次へと読者へ突きつけていくからかもしれない。それは、快感と呼ぶには余りに強烈で、しかしその強烈さがゆえに、私はまた新しい彼女の本が出ていやしまいかと本屋の棚を探ることとなるのだ。