トーマの心臓 萩尾望都[manga]

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

竹宮恵子風と木の詩」と共に「やおい」マンガのルーツとなった作品であり、所謂「お耽美系マンガ」の走りでもある。

と同時に、60年代後期〜70年代初頭に目立ってきた「青年向けマンガ」の影響が色濃く伺われる。ちょうど安保理闘争が起こったこの頃、数多くの「マンガ」が「コドモの娯楽」としてではなく、「大学生が読むべき教養本」として捉えられるようになっていた。宮谷一彦、真崎守、永島慎二、そして岡田史子………74年に発表された「トーマの心臓」は、これら作品群の大きな影響下にあったと思われる。高い文学性、複雑な心理表現、陰鬱として内省的な物語、岡田史子を彷彿とさせる細くたなびくようなデザイン的描線………どの要素をとってみても、本作品は明らかに既存の少女マンガの枠から外れていた。おそらく、作品及び作者が志向する方向は、前述した「青年向けマンガ」であったと思われる。

ひょっとすると、ここで扱われている「やおい的要素」つまり、「少年同士の恋愛感情」とは、「トーマの心臓」を「少女マンガ」という枠内に留めるためにどうしても必要な枷だったのではないだろうか。逆にいえば、この部分さえ抑えておけば、他の部分でどれだけ冒険をしても「少女マンガ」の枠に留まることができる。あるいはそれとも、薄っぺらい男女の恋愛に対する、強いアンチテーゼとして「本物の恋愛マンガ」を目指そうとして、敢えて「少年同士の恋愛物語」を描いたのかもしれない。

いずれにせよ、本作品は当時の少女マンガの中ではカウンター的な機能を持っていた作品であったと思われる。そしておそらく、作者の意識としては自身が「少女マンガ家」よりは、60年代後期〜70年代前期の「青年向けマンガ」からの流れに連なる「ニューウェーブ」であるとの意識を強く持っていたのではないかと想像される。それが結果として新たな少女マンガの流れを作り、それが現在でも「やおい」「耽美」という形で生き残っているのだ。

本作品は言ってしまえば、「自分が汚されてしまった」ために「自分はもう人を愛する資格がない」と思い込んだユーリがひたすらうじうじうじうじと悩み転げ、最終的に転入生エーリクへの愛情を自分自身で認めるようになるまでのお話である。「自分は汚れてしまった」「自分はもう人を愛する資格がない」という、勝手な勘違いというか、ともすれば単なる自己陶酔でしかない意識のあり方は、実は現在の「やおい」「ボーイズ・ラブ」「耽美系」と非常に共通するところがある。その意味では、現在の「やおい系」というジャンルが単なる「少年愛」という表層的な部分だけではなく、「トーマの心臓」という作品の精神性をもきちんと引き継いでいることが伺え、なかなか興味深い。