半神 萩尾望都[manga]

oippu2005-03-20

半神 (小学館文庫)

半神 (小学館文庫)

この短編集を読んで、萩尾望都はSFの人なのだな、とつくづく思わせられた。
SFと言っても、何も宇宙を舞台にしているとか、SFっぽい題材を選んでいるとか、そういったことだけを言っているのではない。「ラーギニー」などのように、始めからSFを意識して作られた作品も本短編集には数多く収められているが、それ以外の作品、たとえば表題作「半神」や「偽王」にも、SFと通ずるところが認められるのだ。つまり、作家の本質的な部分が「SF」なのではないかと思うのだ。

それが最も端的に現れているのが、「金曜の夜の集会」という短編だろう。アメリカの平凡な片田舎−各家庭ではそれぞれにささやかだが、楽しく美しい家庭生活が営まれていた。8月の最後の金曜日−マーモやダッグら天文クラブはローエル・ボーエル彗星が到来するというので大はしゃぎだった。だが、天文クラブの先生は集合観測を中止し、親たちは「集会があるから」という理由で子供たちに夜中に一歩も外へ出ていかないよう言いつけるのだった。マーモとダッグはこっそりと夜中に外を出て、集会の様子を窺った。そこで、彼らは驚くべき真実を知るのだった………。

8月最後の夜、街は消滅する。マーモの姉ソフィアの特別な能力により、村人達はその事実が予見できていた。そこで、村人達は再びソフィアの力と、午前0時に街に加わるエネルギー(つまり、街が消滅する元となる力)を頼り、何とかして生き延びる方法を見つけだした。「村ごと、過去へ戻ること」である。1年間だけ、村全体が過去へと戻り、また同じ生活を繰り返すのだ。そして子供達は、一切の記憶を消されて、自分たちが気がつかないままに同じ人生を繰り返していく………。

「このぼくらはみんなまぼろしだ  とうに存在しない影なんだ」

最後、マーモは憧れているセーラを誘い出し、ほうき星を見に行こうと連れ出す。セーラが窓から抜け出そうとしたその瞬間、街全体は光に包まれ、そこでこの話は終わる。

「時間が永遠にループする」という展開は非常にSF的であり、実際にこれまで数多くのSF作品で用いられてきたシークエンスである。それは、「なんか不思議なことが起こって、それが科学的っぽい理屈付けで説明されているから」というテキトーな理由で「SF的」なのではない。
「永遠が繰り返される」という状況によって、現在〜過去〜未来という時間の流れが均質化する。つまり、自分と世界を限定してくれるルールの1つが無効化されることとなる。それまで、自分の存在にも、自分の村や友達の存在にも何の疑いも持っていなかったにもかかわらず、この「ルールの無効化」により初めて自己と自分の外界に対して疑惑の目を持つ。自分と自分の外界との境界が薄れ、「世界」は唐突に不可思議で、捕らえどころのない神秘的存在となる。そしてそれを理解しようとする「自己」でさえ、どこかふわふわと無限の宇宙を漂っているような、非常に心許ない、理解しがたい存在になってしまっているのだ。
だが、「ルールの無効化」が行われ、「自己」と「世界」との区別がつかなくなってこそ初めて手に入れられる視というものも、また存在する。自分が「絶対的」だと信じてきた存在が、絶対でも何でもない、ただの一夜の幻想に過ぎないのだと分かって、初めて見えてくるものも、またあるのだ。そしてそれこそが、私が考える「SF的視点」なのである。

表題作「半神」では、主人公のユージィは子供の頃、下半身の部分が妹のユーシィとくっついたまま産まれてきた。ユージィは妹のユーシィに栄養を吸い取られてしまったため、すっかり衰弱し、醜い子供として生きてきた。だが、手術によって2人は分離され、愛くるしい姿をしていたユーシィは、まるでかつてのユージィのように醜く毛が抜け落ち、やがて死んでいった。そしてユージィは、かつてのユーシィのように美しく成長していった。しかし、BFもでき幸せになったはずのユージィは、今でも鏡を見るたびに、その自分の姿からユーシィの影を見出し、醜く死んでいった妹の姿に自分のかつての姿を重ねる。彼女は、自分がユーシィなのか、ユージィなのか、分からなくなり鏡の前で途方に暮れてしまうのだ。

この場合では、「ユーシィとユージィが下半身の部分でくっついている」ことそれ自体が、双子の世界観を決定している大きな要素となっていた。それは、確かにユージィにとっては不幸だったかもしれないが、2人の世界観の中では役割分担がきちんと決定され、安定した状態にあったのだ。2人の身体が分離されると共に、2人の中で築き挙げられた共通の世界観は崩壊し、やがて片方のユーシィは死亡してしまう。「2人の身体=1つの世界観」によりこれまで安定を保ってきたのが、1人の死により非常に不安定な状態=アイデンティティーの喪失へと繋がらざるを得なくなる。と同時に、妹のユーシィという存在をなくして初めて、「ユーシィという存在は自分のアイデンティティーを成立させる半分の要素−「半身」なのである」という事実を発見することとなる。つまり、「世界を構成するルールの無効化」により、「自己と世界の境界線が薄れ」、その結果「新たな視点が獲得される」という流れが、この表題作においても確認することができるのである。

この短編集は、他にもシェークスピア真夏の夜の夢」を下敷きにした「真夏の夜の惑星」、10日間の監禁生活実験によってある学生が観た不思議な光景を描く「スローダウン」、海賊船を舞台に繰り広げられるコミカルなドタバタSF「ハーバル・ビューティ」など、全部で10作品が収められている。そのどれに対して読者がSF的精神を感じたかによって、読者の趣味嗜好が読みとれるかもしれない。私は全部に感じてしまったのだが、これは私が欲張り過ぎるのか、はたまた単純過ぎるのか、自分ではどうにも判断しようがない。