マリア様がみてる 第3話「月とロザリオ」

マリア様がみてる」とは学園レズレズ話に見えて、その実「ムーミン谷」のような「共同体」について描かれた話である。スール(妹)の契りを結ぶとは、文字通り、2人が「疑似家族」の関係を結ぶという事に他ならない。これは、まだ未成熟な女学生たちの他愛もない「オママゴト」ではあるが、しかし、彼らにとっては非常に切実な意味を持った「オママゴト」でもある。

何故、学園内で「疑似家族」を築こうとするのか? その理由は、勿論それが彼女たちにとって必要だからである。何故、それが必要なのか、ということについては、小笠原祥子を例にとって考えると一番分かりやすい。

小笠原祥子は、家系の繁栄のため、自分が好きであった従兄弟と許嫁の関係を結ばさせられている。従兄弟は、これも自分の家系のためを考え、祥子を自分の嫁に迎えるという運命を受け入れている。
しかし、祥子にはそれが受け入れられない。結婚とは、家系の繁栄のためになされるべきものではない。それが自分の好きな従兄弟とであり、従兄弟が自分のことを愛していないとなれば尚更である。それが、祥子の気持ちであろう。
祥子にとって不幸であったのは、彼女が余りに「良いところのお嬢様」であったことである。彼女にとっては「家族」というものが「家系」というより大きな社会性の中に組み込まれてしまっているため、そこでは彼女が望む「共同体的」安らぎを得ることができないのである。
勿論、自分の家系のために運命を甘んじる柏木優の態度は立派で、決して責められるものではない。だが、彼は「男の子」である。「男の子」というものは、「家族的関係」よりも「社会的関係」の中に自己のアイデンティティーを見出す生物である。しかし、女の子はそうではない。女の子は「家族的」=「共同体的」関係性を何よりも重視する生物だ。それに、祥子はまだ若い。後輩の女の子相手にお姉さん風を吹かしてみたり、たまにはその後輩の胸で涙を流すくらい、許されて然るべきではなかろうか。

「家族」が「家族」本来の持つ機能を果たさなくなった現在だからこそ、このスール(姉妹)の契りという不思議な関係性は、少女たちの耳には非常に甘く、また切実なものとして聞こえるのだろう。それはもっともな話であるし、それが流行ることは決していけないことだとも、甘ったれているとも私は思わない。「甘やかせてくれる」というのも、「文化」の持つ重要な役割だと思うからだ。