コンフェッション

なんかよく分からない映画だなぁ、と思って、観終わった後にインターネットで検索をかけたら次のようなページを発見した。

http://www.alc.co.jp/eng/eiga/wadai/wadai07.html

なるほど、そういうことだったのかー。

ポストモダンとは、テレビや映像だけが現実と錯覚され、その背後には何もない
>ように感じられる状況を指した語である。
(上記urlからの引用)

ポストモダンってそういう意味だったっけ? など、思い切りが良すぎる断定口調には少しばかりアヤしさが漂います。だけど、

>人格とは元来、表面と裏面が合体して一体となったものであるのに、両者が
>分離され、個々人が自分の表面と裏面を見失う──このこと自体が、今日的人格
>崩壊の本質なのである。

そして、本作品のテーマ性はまさに「表面」と「裏面」の両者に引き裂かれ、アイデンティティーを喪失した人間の悲劇であると見抜いた慧眼は、全くもって見事という他はない。主役チャック・バリスは「テレビ・プロデューサー」という「表面」を演じる事に疲れ、「殺し屋」という「裏面」を作り出すことによって、精神のバランスを図ろうとするものの、そのことが結果として更なる危険を産み出す、という論調は無駄が無く、筋が通っていて、格調の高ささえ感じさせる。

勿論、上記考察を記した越智道雄氏の意見には全く反対するところはないのだけれど、私はもう一つ、本作品は大事な要素があるように思う。

「殺し屋」と「テレビ・プロデューサー」という職業には、一つの共通点がある。それは、「たくさんの人間の人生を弄ぶ」という事だ。他人なんて、どうでもいい。人間なんて、心の底では俗悪なことばかり考えているのだから。現実なんて、くだらない。映画や小説のようなロマンスは、現実には起こりっこしないのだから。ただその瞬間瞬間、ウソでも幻想でもいいから、楽しく「やり過ごせれば」、それでいい。というのが、彼が持っていた人生哲学であった。だからこそ、彼は人間関係を深く築こうとはしなかったし、何年もの付き合いのある恋人からの結婚の誘いを延々と避けてきていたのだ。

しかし、年を経て、キャリアを重ねていくごとに、彼は今までのように刹那的な人生を送ることができなくなってきていた。彼は両方の仕事に深く関わってしまっており、「テレビ・プロデューサー」の仕事では社会的責任を、「殺し屋」の仕事では自分が逆に殺されてしまうという脅迫観念を抱えなければならなくなってしまっていた。(勿論、この両者は「主人公が犯してきたことの罪悪感」という点で、同じものを指した言葉である)

彼は、自分の書いた本にこれまでの人生のことを告白する。自分は本当は小説が書きたかったこと。大衆に喜んでもらえるものを作りたかったこと。そして、生涯愛する人と人生を共にしたかったことを。しかし、彼はその都度その都度で、刹那的な快楽を選択してしまい、そのまま年とキャリアを重ねてここまで人生を歩んでしまった事を。結果、彼がこれまでしてきた事は、数々の女性と一晩限りの関係を繰り返した事と、大衆を傷つける(=殺害する)低俗なテレビ番組を作ってきた事だけであった。彼が本当に心の底から望んできた人生とは、全く反対の人生を歩んできてしまったのである。

だからこそ、ラストで自分の恋人に対して「自分は今まで人を暗殺してきた」と告白するシーンは、本作品で非常に象徴的な意味を持つことになる。この懺悔によって、彼のこれまでの罪を幾分かは清算し、少なくとも「愛する女性と生涯を共にする」という真の幸福を手にすることができたのであるから。

ラスト、「老人ゲーム」(銃を手にした老人たちに自分のこれまでの人生を語ってもらい、最後まで自殺しなかった者が勝者であるというゲーム)の説明と共に、年老いたチャック・バリスの姿が映し出されたラストシーンは、実にグッドであった。「有名なテレビ・プロデューサー」という他人から見たら「勝ち」と思える人生が、実は「大敗であった」と告白するこのラスト・シーンにこそ、本作品の最大の「コンフェッション」=「告白」だったのである。