MADLAX 最終回「欠片-pupil」

「僕は君であり、君はまた僕である」という二人以上の人間が一つの精神へとシンクロしていく感覚、また「君は、君以外の何者でもない」という個の精神的確立は、並存し得る。また、本作で語られるとおり、『自分の中の「善」と「悪」は、それぞれが独立し、並存し得るものである』という考え方にも繋がってくる。って、いうテーマだということは、よく分かった。24話かけて展開された一見複雑な物語は、振り返ってみると案外とシンプルであり、一貫性を保ちつつ、丁寧にテーマ性を展開していくことに成功していたように思う。そういった点で、本作はそこそこ優秀な作品であると言うこともできるのであろう。だが、それでも私はこう感ぜずにはいられない。

だから、それが一体何だって言うんだ?

何つうか、「壮大な考えオチ」って最終回だったよなぁ。ちょっと抽象的過ぎたんじゃねぇか? やたらとセリフで心情やテーマを説明するのも、何となく厨房臭いしさぁ。って言うかさ、「一人の人間の中には、悪い部分も、良い部分もあるよねー」といったレベルの話くらい、イマドキ頭の良い中学生なら誰でも知っていることじゃない?

こういった(気持ち悪い)「自分語り」って、東浩紀あたりがもて囃している若者向けラノベや、昨今の恋愛エロゲーの悪い影響なのかしら。そう言えば、黒田洋介はどこかの媒体で「Realize」というエロゲーを高く評価していたっけ。「甘ったるいお菓子に満足している人間は、これをプレイして眼を覚まして欲しい」とか何とか言っていたと思う。でもさ、「エロ」で「アニメ調」な絵をした「ゲーム」に、ユーザーが「甘ったるいお菓子」を期待するのは当然のことだと思うぞ。所詮はエロゲに対して、文学や映像作品並みの高すぎる評価を与えてしまう人間って、何かを見失っているようにしか思えないんだよなー。(昔は私もそういった種類の人間の一人であったのだけれど)

黒田氏の次の仕事は、車田正美原作の「リングにかけろ」の脚本だと言う。本作といい、「GUNGRAVE」といい、最近は割と凝った構成で魅せる脚本を書くことを目指していたように見える黒田氏だが、ここにきて原点回帰の「バカ熱血」ものを手がけることを決めてくれたのは、昔から名前を知っている私のような者からは嬉しいばかりである。「スクライド」や「おねがいティーチャー」のように、緻密さよりはノリを重視した脚本を書いてくれるならば、結構期待が持てそうである。

あーと、後、言うタイミングを完全に逃してしまった感はあるけれど、真下耕一の作風について。「光」と「影」の極端なコントラストが非常に独特。ある画面では、全体的に柔らかい光を当てて夕方の明かりを演出したり、ある画面では、画面半分以上を影で覆い尽くしてみたり、ほとんど全ての画面において「光」「影」を用いた何らかの演出を施している。この過剰とも思える演出によって、構図のとり方・作画の弱さを補い、奥行きのある画面を作っているようだ。

ここらへん、具体的にはどのように撮影を行っているのであろうか? 上記の演出法って、遡れば「無責任艦長タイラー」のころからの手法であったように記憶しているけれど、でも明らかに昔はもっと大人しい演出であった。ここまで全面的に手法を展開したのは、今作が初めてではなかろうか。