パイド・パイパー 山岸凉子[manga]

パイド・パイパー (MF文庫)

パイド・パイパー (MF文庫)

奈良の幼女誘拐殺人事件で、何やらオタクたちとフリージャーナリスト大谷昭宏氏が揉めている。
http://www.geocities.jp/houdou_higai/
勿論、大谷昭宏氏という人はとんでもなく視野が狭く、愚かな人なのであろう。
だが、だからと言ってオタクたちが躍起になって大谷バッシングをして、自らの「オタク」という生き方を正当化しようとするのも、なんか違う気がする。そして、思わず次のような意地悪な質問をしてみたくなるのだ。
「そこまで、自分で自分たちのことが大好きデスか?」
小林薫はペドであるのは間違いないとして、オタであったかもしれない。そうでないかもしれない。2ちゃんの「さくら板」にカキコをしたかもしれない。しなかったかもしれない。だけど、そんなことはどうでもいいことではないのか。本事件について、もっと議論すべきことがあるのではないか。建設的な意見を出し合えるのではないか。何故、何でもかんでも「自分たち」のフィールドに持ってこようとするのか。
幼女誘拐事件をダシに、くだらない持論を展開しようとする大谷氏も大谷氏だが、やはり事件をダシにして自分たちの「オタク性」を正当化しようとするオタどもも、同じ穴の狢である。

たとえば、小林薫容疑者が大谷氏の言うように「フィギュア萌え族」であったとしよう。さて、ここに3次元の人間よりも「フィギュア」にしか性欲を持つことができない人がいたとしよう。彼(若しくは彼女)は、小林氏のような事件を果たして起こすだろうか。もちろん、ほとんどの場合には起こすわけがない。

では、次のような言い方はどうであろうか。あなたは誰かを恨んでいたとする。思いっきり首を絞めて、殺したくなったとしよう。では、あなたは「本当に」それをするだろうか?

世に生きる人なら誰もが1度や2度は、特定の相手に対して殺意を抱いたことがあることと思う。(もしそうでないという人がいたとしたら、それは余程幸福な人間か、失礼ながら自分の人生を歩んだことのない者である)しかし、「本当に」人を殺してしまう人間はごく僅かである。もし、殺人が起きたとして、ではなぜその人は「本当に」殺してしまったのだろう。なぜ相手はむざむざ「本当に」殺されてしまったのか。本当に議論すべきなのは、まさにこのことについてである。
「何故、ミルクはこぼれてしまったのか?」を、それこそ朝まで徹底的に語られるべきなのである。ミルクの銘柄がどうだとか、誰の持ち物であったかなんて、どうだってよい。責任のなすりつけ合いなど、愚の骨頂である。そうではなく、「何故」事件が起きたかをドライに理知的に問いつめていくことのみが、唯一再発を防ぐ道なのである。

実は小林薫の異常性について語ることは余り意味がない。この世の中が続く限り、異常者は存在するし、小児愛好者も存在することであろう。(何もこれが近代国家の抱える闇というものでもないだろう。昔から、こういった犯罪も、異常者も存在してきたと思われる)それについて、何らかの社会的背景から説明しようとすればできるだろうし、誰か特定の集団を吊し上げてそいつらのせいにすることもできるだろう。だが、事実としては「異常な男が一人いた」というただそれだけのことである。この異常な男の生い立ちや背景について調べることは、それはそれで興味深いことではあるが、それよりも先に考えなければならないことがあるはずだ。何故、市民は異常者犯罪から自分たちの子供を守ることができなかったか、という点である。

表題作「パイド・パイパー」は、奈良の幼女誘拐事件を彷彿とさせる、非常に恐ろしい物語である。「パイド・パイパー」とは、「まだら服の笛吹男」、つまりかの有名な「ハーメルンの笛吹男」のことである。笛を吹きながらハーメルン市の子供達を一夜にして連れ去ってしまったという、あの男のことだ。
ここまで読んでピンと来られた方もいるかもしれない。本作は、まさに「少女誘拐事件」がドラマの中心に置かれるのだが、そこでカギとなってくるのが、「何故、少女が知らない男についていったか」なのである。

山岸凉子は本作を通して、近代人の孤立を少しずつ炙り出していく。すっかり愛情が冷め切ってしまった夫婦と、男親に懐かない子供たち。近所との付き合いもなく、人に迷惑をかけても知らん顔で通り過ぎる若者。そして、息子が異常犯罪を繰り返していると知りながら、家にかくまい、一緒に住み続けた年老いた母親………。
本作の「ハーメルンの笛吹男」=津田清は、近代人たちの希薄な関係性の間隙をこっそりと突いて、家族の宝である娘を攫っていってしまったのだ。そして、母親が娘の千歳を犯罪者の手から取り戻すことができたのも、やはり、近所の人たちとの密なコミュニケーションがあったからこそなのだ。

当たり前だが、我々は1人1人少しずつ違う。その「違い方」が大きい者を、便宜上「変わり者」「異常者」と呼んでいるに過ぎない。そういった1人1人が集まって、「社会」「関係性」ができあがるのである。
もし、社会の中に「異常者」が現れたり、また「異常な事件」が発生したとすれば、それは多くの場合、そこでの「関係性」の中から産まれたものである。(「関係性が希薄」というのもまた、「関係性」の1つのあり方である)だから、個人の「異常性」というのは、実は集団の中での「関係性」ということによって説明が可能であるのだ。また、「異常な犯罪」を防止するのも、やはり社会の中の「関係性」そのものに他ならないのだ。

我々は「狂気」や「異常性」というものを、個人の責任と考えがちである。だが、果たしてそれだけと言えるだろうか? 山岸凉子の作品は、いつの間にか近代個人主義思想に凝り固まってしまった我々に、新たな視点を与えてくれる。それはとても大事な、「オタクvs大谷氏」なんかよりもよっぽど大事で、意義のある視点なのである。