鬼 山岸凉子[manga]

いきなりで何だけれど、昨日の文章で間違ったところの訂正から始めておきたい。私は前回の文章でこう書いていた。
「勿論、山岸凉子には他にも様々な要素を持っている。今日はその中でも「純度100%の愛」というキーワードで話を進めていくことにする。」
しかし、その後で「悪意」「殺意」の話が出てしまい、上の文と矛盾が生じることになった。もし混乱してしまった人がいたとしたら、非常に申し訳ないことをしたと思う。ごめんなさい。
しかし、強がりを言うわけではないが、これはある意味では「間違っていない」とも言える。「純度100%の悪意」と「純度100%の愛」というのは、コインの裏表のような関係で、実は全く同じものを指していると考えることができるからだ。
たとえば「蛭子」においては、少年の春洋は家でも学校でも「いい子」で通している。女子大生里見の前に最初に現れた時も「いい子」のように見せているのだが、それは彼が家や学校で見せている姿とは少しばかり異なっている。家ではどちらかと言えばクールでしっかりとした子を演じているのに対し、里見の前では「繊細で優しい美少年」として現れるのだ。彼は、おそらく家では決して見せることのないような「甘え」を里見にしてみせる。「また遊びに行きたい」「家に泊まりたい」そして、いじめっ子に脅かされたと言って涙ながらに「お金を貸して欲しい」という図々しい要求までもする。ここには、まるで幼少期の子供が保護者に対して行うような、「1人の個人が、また別の個人に対して100%の依存を行う」という関係性が見てとれる。最初は甘えられて悪い気がしなかった里見であったが、家の金がどこかへ消えてしまったことがあったり、要求する額が大きくなったことから、春洋を強く叱りつけてしまう。すると、何とこともあろうに春洋は「逆ギレ」を、それも非常に陰湿な形で起こしてしまうのだ。(野良猫の死体を里見の部屋のドアの前に置く、サラダ油を水槽に入れて金魚を死滅させてしまうetc)実はここにおいても、非常に幼稚な「依存関係」が見て取ることができる。子供は自分の要求が聞き入れられないと分かると、泣き喚いて不満を訴えることがあるが、春洋の一連の行動はまさにこういった幼児性を体現しているものである。もっとも春洋のあまりに過剰な一連の行動は、決して「幼児のワガママ」で済まされるレベルのものではなくなっているが。
1人の個人が、また別の個人に対して「自分の全て」を認めて欲しい、「自分のすること全て」を許して欲しい。だから、甘えた声でおねだりするし、自分の言うことが聞き入れなければ「逆ギレ」を起こし乱暴な行動にも出る。これだけを書けば少々常軌を逸した関係のように見えるが、実はこのこと自体は親と幼児期の子供の間では非常に頻繁に見られる「依存関係」に過ぎない。ただ、本編の場合、依存しているのが幼児期の子供ではなくすでに中学生であること、そして親に対してではなく全く赤の他人の女子大生に「依存」が向けられていることが、常軌を逸して異常なのである。さらに悪いことに、大人としての悪知恵をつけたために、依存のあり方が「こっそりと金を持ち出す」という非常に陰湿な形となって現れていることも見逃せない。
「逆ギレ」の瞬間、「相手への100%の依存心」というものが「純度100%の愛情」の形から「純度100%の憎悪」に変化し得ることがあるということが容易に分かっていただけたことと思う。自分の存在を認めてくれるたった1人の人間が、同時に自分の存在を完全に否定し得る人間にもなり得るのだから、これはある意味においては当然の感情と言うこともできるだろう。問題は、春洋少年が学校においても、そして実の家庭においてでさえ、かりそめの「社会的関係」をなぞっていただけに過ぎなかったことであろう。幼児期にきちんとした「親子間の依存関係」を経験できない/卒業できなかったことによる不幸であろう。

ここで、前々回話した「関係性のねじれ」と前回話した「純度100%の悪意」が一点で結ばれたような感じがある。このあたりはまた機会を設けて、突き詰めて考えてみたい。

「蛇比礼」における「悪意」はまた別のものであるのだが、それはまた機会を改めることとして、そろそろ本編の「鬼」の話をすることとしよう。ここまででかなりの行数をかけているので、なるべくあっさり済ませるようにしたい。また、今までは割と観念的な話が中心であったので、技術的なポイントから話を始めることとする。

「鬼」は鎮め塚、江戸時代に飢饉に苦しんだ農民が「間引いた」子供たちを生きたまま落とし入れた深い涸れ穴が物語の中心に置かれている。子供達は何も食べるものがないまま、何日も何日も過ごし、やがて衰弱し、1人ずつ死んでいき、その死体の肉を食べようと子供たちが群がっていく………という実に凄惨な地獄絵図が漫画中に描かれることになる。だが、その少年たちは頭身が低い可愛らしいキャラクターとして描かれ、山岸のペンタッチもいつものとおり淡々としたままなのである。鎮め塚での少年達と並行して描かれる現代劇(鎮め塚がある所に大学のサークルメンバーが旅行に訪れたという設定)の方が、むしろリアルなタッチで描かれているというほどだ。

普通、こういった凄惨な話は密度の濃い絵が描かれることになる。たとえば坂口尚「石の花」ではアウシュビッツ刑務所でのユダヤ人に対する日々の過酷な労働の様子が、他の絵柄とは明らかに一線を画する密度の濃い、劇画的なペンタッチがなされていた。アウシュビッツの悲劇性、凄惨さを表現するには、それだけ読者にインパクトを与える画を描く必要があり、畢竟画面の密度は濃くなっていくものなのだ。

ところが、山岸凉子は鎮め塚を描く場面でいつものように淡々と白くスカスカなペンタッチを選択している。人によっては、山岸凉子のざくっとしたペンタッチと画面全体の白さから、何て適当で下手な画なのだろうと思われるかもしれない。それくらい、あっさりとした絵柄なのだ。あっさりとした絵柄は、ほのぼの少女漫画ではいいかもしれないが、江戸時代の飢饉の様子を描くにはおおよそ不向きのように思われる。

ところが、実際には全然そんなことはない。可愛らしく人なつっこいキャラクターとして描かれているので、我々はそれを自分たちと非常に近しいキャラクターと感じることができる。また、現代劇が並行して描かれているという構成/両者の絵柄にさほど差異を持たせていないという手法によって、読者はまるで対岸の火事のように「大昔の出来事」を勉強するという形ではなく、現在進行中の事件に立ち会っているという実感を持つことができる。

やがて、物語は「不思議圏」のサークルメンバーと鎮め塚に落とされた子供達が過去と現在を飛び越えて対面するところまで話が進むことになるが、この構成の巧みさと一貫した絵柄によって、この展開が唐突なものとしてではなく、実に自然な流れとして読者に理解されることとなる。山岸凉子は作品全体をコントロールする能力の高さを改めて思い知らされたようだ。

もっとも、現代劇と大昔の出来事を並行して描くという構成、そしてその両者を一貫した絵柄でペン入れを行うという手法は、物語的効果を狙ったものばかりではない。それは、山岸凉子自身の「まなざし」そのものなのである。彼女にとって、「現代」と「過去」は区分されるべきものではなく、全く同一地平線上にあるものなのである。「過去」は過ぎ去ったものではなく、何時だってすぐそばにあり、手を伸ばせば届くものであるのだ。それは「現在」/「過去」に限ったものではない。「現世」/「黄泉」、「善」/「悪」、「正気」/「狂気」という両者も、実は我々が信じているほどの差異や境界といったものはなく、自由に行き来できたり、場合によっては同一のものであったりするのである。

だからこそ、彼女が描くホラー短編は他のどの作品よりも何倍も何十倍も怖いのだ。たとえば「狂気の殺人犯」についての話を読むとき、我々は多少の理解は示しつつも、根本的には自分とは全く異なる世界の話だと安心して構えている。だからこそ、フムフムと安心して好奇心を満たすことができる。山岸凉子作品はそんなことは許してくれない。山岸凉子が「狂気」を描くとき、それは我々の「すぐそば」にある狂気であるか、他ならぬ我々自身の「狂気」でなのだ。また、山岸凉子の「心霊もの」が心底怖いのは、「黄泉の世界」が簡単に手の届く距離にあり、そして自分が簡単に「そこ」へ連れてかれてしまうことを実感させられるからだ。

この「まなざし」があるからこそ、後半にまるでテレビの心霊番組そのものの展開になりながらも、一瞬たりとも陳腐に陥ることなく、面白さとリアリティーを保つことができたのである。

ここ数年で、私もすっかり漫画を読むのに慣れてしまって、いい言い方をすれば余裕を持って、悪い言い方をすれば少し斜に構えて読むようになってしまった。いつの間にか、作品に対してある程度の距離を持って「評価」するようになってしまったのだ。山岸凉子は、私に久方ぶりに作品の中にどっぷりと漬かり、その中に「参加」した気分にさせてくれる作品となった。ここで一旦、「山岸凉子論」は終えることとするが、またいつか折を見て始めたいと思う。こうして書いていくことで分かってくることも多く、書き手である私にとってのメリットが非常に大きい文章となった。長々ダラダラと書いて、もしここまで読んで下さっている方がいたとしたら(しかも結論出ずじまい)、申し訳ない。まだ山岸凉子を読んだことがない人がいたとしたら、是非ご一読をお勧めする。とりあえずは「日出処の天子」が読みやすいと思う。これも、読み進めていくうちにやたらめったらと濃い作品であることが分かってくるのだけどね。