「七夕の国」 岩明均[manga]

oippu2005-03-06

七夕の国 (1) (ビッグコミックス)

七夕の国 (1) (ビッグコミックス)

やっていることは「ベントラベントラ」(宇宙人を呼ぶ、あの儀式のことね)や「神=宇宙人説」と、「アマテラス」レベルのトンデモ具合。にもかかわらず、描写や絵柄が淡々としており、登場人物も読者と同じ目線に立った普通の気のいい男の子なので、ちっとも安っぽかったり、いかがわしかったりするところがない。その端正な絵柄と相まって、非常に高級感に溢れて見える。4巻あたりから編集の都合か作者の興味が失せたのか(おそらく両方)、それまでのテンションが一気に落ちて、途端に話をまとめだしてしまう。にもかかわらず、世界観や舞台設定が余りに構築度が高く、完成されている。だからたとえテンションが落ちてきているのに読者が気付いても、話が紐解かれていくだけで、その面白さに引き込まれ問題なく最後まで一気呵成に読まされてしまう。
岩明均作品の中では、ひょっとしたらそれほど成功した作品ではないのかもしれないし、作者自身も途中から熱が冷めていくのが感じられた。にもかかわらず、ムチャクチャに面白い。岩明均の場合、たとえどんなに「ハズレ」であったとしても、恐ろしくレベルが高いから全然「ハズレ」に思えない。つまり、「ハズレ」であったとしても、他の同系統作品と比較すれば軽くそれらをひょいと超えてしまえるほどの作品力を持っているのだ。何なのだ、この人は。化け物か。
寄生獣」直後の連載作品とあって、読者側からは「デビルマン」などのような「SF大作」を期待される向きが多かったことと予想される。編集側の要請か、作者自身が読者のニーズを嗅ぎ取ったのか、いずれにせよ作者が次の作品に選んだのはまさにその「SF大作」であった。読者は壮大なスケールの展開やカタストロフィーを期待し、作者自身も途中までは「SF大作」を志向していたように思われた。だが、「全世界や全宇宙を巻き込む最終戦争」といった展開にはならず、非常に個人的な物語に集約されていってしまう。「頼之さん」が自らの力で次々と連続殺人を行ったのは、何も人類全体を相手取って戦争を行おうとするためのものではなく、自分の能力の可能性を試す「実験」でしかなかった。そして、彼一人と1つの小村の小山の一部を切り取るだけで、彼は自らの力で「向こう側」に姿を消すという拍子抜けするような結末を迎えただけだったのだ。「頼之さん」に対して主人公ナン丸君がしたことも、「頼之さん」と一緒に「向こう側」に連れてって貰おうとする幸子ちゃんを引き留めて、「世界中のことテレビでざっと観て、分かった気になったって、そんなのウソだぜ!!」というクサいのだか何を言っているのだかよく分からないセリフを吐き捨てただけに過ぎない。で、結局「頼之さん」は「向こう側」へと消え、ナン丸君と幸子ちゃんはこの世で幸せに暮らしましたメデタシメデタシと、「え、マジで?」と読んでいるこちらがビックリするような盛り上がりがないまま、物語を終結させてしまうのだ。

つまり、「寄生獣」と同じ道を辿ったのだ。岡田斗司夫が「BSマンガ夜話」で語ったように、「寄生獣」は途中まで「デビルマン」同様に「人類と寄生獣との全面戦争」を描こうとしていた作品であったが、途中から路線変更を行った作品であった。最終回では、連続殺人犯との対決を通して、「人間+寄生獣」の合成である泉新一が、地球社会の中でどういった選択を行い、いかにこれからの人生を過ごしていくか、というテーマが描出されることとなった。「革命」や「戦争」といった大状況を描写できる準備は充分に整っていながら、敢えて「それぞれの個が現状の中でいかに人生を過ごしていくか」という、非常に個人的/日常的なレベルに話のテーマを戻していくことを選んだのだ。

「七夕の国」でも、「寄生獣」と同様に、大状況を描いていきながら、最終的には「個と社会のあり方」へと物語の視点がマクロからミクロへと移行する結果となる。「寄生獣」は展開を考えながら描いていったのに対して、「七夕の国」では予め設定や大体の構成を決めて物語を取り組んでいたのは、ほぼ間違いないと見ていいだろう。つまり、「確信犯」として「大状況」を読者に期待させておいて、最終地点である「個人的物語」へと誘導したこととなる。

これを最近流行の「セカイ系」と結びつけて考えたら、大きな見当違いをすることとなる。「セカイ系」とは「全世界」=「個人」であり、また「個人」のためなら「全世界」がどうなっても構わないという、アナーキーで自分勝手な考え方である。岩明均が描く物語は、「世界」の現状の清濁合わせて理解をし、その後にダメなものはダメと拒否しながら、一旦は受け入れていくという姿勢である。もう少し詳しく言えば、社会=「人の集まり」なのだから、個人が勝手に拒否をしたいと思っていてもそれは叶わない、という考え方である。そして「現状の世界」の中で「個である自分」は、「自分」と「社会」のためにどう動いていけばいいのか、と考えようという非常に建設的なアイデアなのである。「セカイ系」のように、「キミと一緒ならセカイがどうなろうと構わない」といった破滅的・刹那的なものと一緒にしてしまっては、決して、決してイケナイのである。

この後、岩明均は「ヘウレーカ」「雪の峠」「剣の舞」、そして現在アフタヌーンで連載している「ヒストリエ」と、歴史物を続けて手がけるようになる。そこで登場する主人公たちは、織田信長アレキサンダー大王のような「大状況を動かした人物」では決してない。むしろ、時代の波や、それよりもっと小さなレベルでの瑣末事(藩同士の諍いや、あるいはもっと小さな個人的な人間関係)に動かされ、その中で自分はどう生きていくかを真剣に考え、自分なりの選択を行った「一般人」たちである。だからこそ、所詮は一般人である私や他の多くの読者達は、その姿を見て心打たれたり、関心したり、主人公達の行く末を真剣に心配したりできるのである。

「七夕の国」は、岩明均が現在の歴史物へと移行していく直前に作られた作品である。綿密な資料調査や、人間描写の確かさ、そして決して大袈裟にはなり過ぎない抑制の利いた筆運びは、ますます磨きがかかり、「寄生獣」初期や「風子のいる店」と比較すると、段違いの成長が見られる。こうして岩明の作品歴を振り返ってみると、「七夕の国」の次に岩明が「歴史物」を題材に選んだのは、必然的な流れであったことが読みとれる。

岩明均の描く歴史物は「ヘウレーカ」にせよ、「雪の峠」にせよ、本当に本当に面白く、私はもう何回も何回も読み返している。それについては、また日を改めて。