「ナイン」あだち充[manga]

ナイン〔小学館文庫〕 1

ナイン〔小学館文庫〕 1

「ナイン」の連載が開始したのは、1978年で、掲載紙は「少年サンデー増刊号」(月刊誌)であった。その後に連載する「タッチ」であだち充は国民的人気を得ることになるのだが、これはその前哨戦にあたる作品である。彼の作品が初めて雑誌に掲載されたのはそれから更に10年前の1970年ののことで、「デラックスサンデー」という雑誌にて掲載された「消えた爆音」がそれにあたる。

「ナイン」連載終了時は読者から好評で迎えられ、その終了時期(「週刊少年サンデー1980年11月号」)と前後して、立て続けに新連載を始めるようになり、氏の代表作もこの頃に集中している。−「陽あたり良好!「みゆき」「タッチ」− そのどれもがアニメ化を果たしており、その中でも特に「タッチ」は平均視聴率25.6%、最高視聴率32.9%をマークし、歴代アニメ視聴率トップ10にまで名を残している。

この「ナイン」は、「タッチ」大ヒットという喧噪期の直前に掲載された、愛すべき小品である。小品とはいっても、本作のヒットがなければ3誌同時掲載ということは起こり得ず、つまり「ナイン」がなければあだち充の現在の成功はあり得なかったという意味で、あだち充マンガ史にとって非常に重要な意味を持つ作品である。だが、こうした気張った文句はこの作品にはどうも相応しくない。「タッチ」や、その後に続くあだち充の作品群が、クールなタッチの中にどこか張り詰めたテンションを隠し持っているのに対し、「ナイン」には頭から尻尾まで呑気で穏やかな時間が流れている。非常にリラックスした姿勢で、好きなように思うまま描いたように見えるのだ。

デビューから35年経った現在でも、あだち充が未だに「週刊少年サンデー」(決して「ビッグコミックオリジナル」ではない)で、しかも看板作家として連載していることは驚くべきことである。(長期連載となった「KATSU!」はついこのほど、連載を終了したばかり)最近でも「H2」のドラマ化などで、再び脚光を浴びるようになった。繰り返して書くが、デビューから25年目である。同じく「サンデー」の看板作家である高橋留美子のデビュー(「勝手なやつら」)が1979年と約10年近くの隔たりがあるということを考えると、これはとんでもない偉業であることが分かる。

ところで、60年代末〜70年代の「スポ根マンガ」といえば「あしたのジョー」であり、「アストロ球団」であった訳だが、70年代に入ると、熱血性そのものよりも、チームワークやプレイヤー個人個人の技能にスポットを当てた作品が登場するようになる。(ちなみに現在、マニアの間で話題になっている「大きく振りかぶって」(ひぐちアサアフタヌーン連載)はまさにこの系統にあたる作品である)それを経て、70年代後半に「熱血スポ根もの」のパロディー作品がメジャー誌「少年ジャンプ」に1977年登場することになる。それがかの有名な江口寿史「すすめパイレーツ」である。

実は「ナイン」の連載開始時期も、この「すすめパイレーツ」と同じ78年である。つまり、「もう熱血は古いだろう」という時代的空気が共有されていたということなのだろう。ナインで提示されるテーマ「野球は勝負はあまり関係なく、楽しいことが一番である」という考え方は、これより前には、少なくともマンガの中ではあり得なかった。70年代後期に入って、こういったある言い方では平和で暖かい、ある言い方では「ヌルい」漫画の存在が許容されるようになったのだ。

ところがこれ以降は、青少年的な課題が少年誌に持ち込まれることになり、あだち充作品もその流れに入ってしまうことになる。この頃から、すでにあだち充作品では青少年的課題を抱えていたのだが、それを本格的に取りあげるようになった作品が「タッチ」となるのだ。(具体的に言えば、「兄の弟に対するコンプレックス」がそれにあたる)単なるお気楽野球漫画を描いても良かったはずなのに、あだち充が敢えてそれを選ばず、あだち充なりに真っ正面から「スポ根もの」「恋愛もの」を「タッチ」で描こうとしたのである。これは、おそらく半ば意識的な力によるものであったのではなかろうか。彼は自ら難しいテーマに挑むことで、新しい時代に耐えうるだけの強度を持たせようと感じたのだと推察される。

実は「タッチ」以降でも、あだちは数々の作品群で自分がこれまで敢えて踏み込まなかったテーマ・分野に果敢に踏み込んでいる。「H2」では、これまで描かれなかった高校野球の負の部分に思い切ってメスを入れると共に、今までのあだち作品では決して描かれることのなかった男女の恋愛感情の微妙な綾を描ききった。この挑戦により、「H2」は90年代作品としての同時代性を獲得し、新しい若いファン層を多く獲得することと繋がったのだ。

最新作「KATSU!」では、あだちは果敢にもボクシング漫画に挑戦している。これは、細野不二彦だって、高橋留美子だって取りあげた題材であり、別段珍しいことでも挑戦でもないだろう、と思われることだろう。だが、あだちにとっては、ボクシングを題材に選ぶということは大きな挑戦であったはずだ。あだちにとって、ボクシング漫画とはすなわち、熱血スポ根「あしたのジョー」と同じことを意味していると思う。熱血マンガのカウンターとしてお気楽青春漫画「ナイン」を描いたあだちにとって、ボクシング漫画を描くということは、「あしたのジョー」と同じだけの重く硬派なテーマを引き受ける覚悟ができたということであろう。(「タッチ」においては、あだちは上杉達也にボクシングをさせてみるものの、結局、途中で辞めさせることとなった。作品中でも言われるように「達也が優しすぎる」(つまり、あだち充本人が「優しすぎる」)ために、作品内でボクシングを描き続けるのが難しくなったというのは、穿った見方であろうか?)

この求道的ともいえる姿勢が、あだちを現在までサヴァイヴさせ、第一線で活躍させている源となっているのは間違いない。これは、作者に常に無理強いを背負わせているということで、そういった意味で考えれば、あだち充は不幸と言えるのかもしれない。だが、それも仕方がない。音楽評論家渋谷陽一氏は「ポップミュージックを作ることで、大衆はどんどんと幸せになっていき、音楽家はその対価としてどんどん不幸になっていく」といった意味のことを語っていた。これは、大衆的な娯楽漫画に対しても全く同じことが当てはまる。常に第一線に立ち、大多数の読者の期待に応えていき、なおかつ新しい若い読者層に受け入れられようと考えるのなら、何も考えずヘラヘラ笑って自分だけが楽しい漫画など、描けるはずがないし、編集もそれを許すはずがないのである。そのおかげで、クールな雰囲気の中にも張り詰めたテンションが隠されている、あだち充独特のスタイルを持った至極の作品を我々読者は楽しむことができるのだ。と同時に、「ナイン」の頃にはあったいい意味での「ヌルさ」「緩さ」は失われてしまったのかもしれない。

そこで、もう1度、第3段落目に書いた文と同じことを書く。この「ナイン」は、「タッチ」大ヒットという喧噪期の直前に掲載された、愛すべき小品である。本作品が持つ、暖かく、平和的な雰囲気は、作者が作品をリラックスして、好きなように描くことが許された時代の産物である。幸福なことに、ちょうど70年代後期というのが、「青春は楽しめればいーじゃん」というあだち充の基本的資質をおおっぴらに打ち出すことが許された、僅かな短い時期であったのだ。そして、読者側もこの時期までは「あ、青春って楽しければいーのか」と、好意的に受け止めてくれていたのだ。作家がいちばん描きたい(それも、眉間に皺寄せた難解なテーマのものではなく、非常にリラックスして描いた)と思ったものが、多くの読者によって愛された、ごくごくわずかな時期に描かれた、非常に幸福な出会いをした作品であったと思う。もちろん、現在でもこういった作者と読者の関係性は「アリ」だし、そういった作品は幾らでも例を挙げることができるだろう。だが、あだち充の場合においては、その時期は非常に短かったのではないかと思うのだ。そして、その作品が「ナイン」なのである。

青少年的課題や恋愛は、すでにこの頃から扱われているが、決して深いところまでは追求されない。青春の鬱屈で痴漢に走る元名門出身の投手を「こいつはクソをしねぇから悪いんだ(エネルギーを発散させないから、鬱屈するのだ)」と一蹴し、たった1話を費やすだけで問題が解決され、名門投手は鬱屈から立ち直ることとなる。その程度で、話は終わらせてしまうのだ。恋愛話も出てくるが、今読むとまるでママゴトのような幼さである。だが、それで良かったのである。それくらいの温度が、作者にとっても、読者にとっても、ちょうど心地よい温度だったのだ。

この作品の持つ幸福感は、他の作品でも体験したことがある。たとえば、いがらしみきおぼのぼの」、あるいは川原泉の作品群が持つ幸福感とやや近いものがある。だけど、ちょっと川原泉だとヌル過ぎるんだな、私的に。あと、ほーんの少しだけ、カチッとした構成をして欲しいのだ。実を言うと、「ナイン」の持つ適度なヌルさと言うのは、私的に非常に心地よく、最も効率よく幸福感を味わえる仕上がりとなっているのだ。そして、それがあだち充作品群の中でも、わずかな時期にだけ許されたという意味において、「ナイン」は私にとって非常に貴重な作品なのである。