やけくそ天使 吾妻ひでお[manga]

oippu2005-03-29

やけくそ天使 (1) (秋田文庫)

やけくそ天使 (1) (秋田文庫)

失踪日記」が売れに売れまくって、今さらながらに吾妻ひでお再ブームが到来である。で、その「失踪日記」の中で「ふっきれた けっこう気に入っている作品」として挙げていたのが、この「やけくそ天使」である。

内容は「ふっきれた」どころではないメチャクチャのグッチャグチャぶり。何のモラルも整合性もルールもなく、衝動の赴くままにただひたすらペンを走らせている。

何しろ主役の名前からし阿蘇湖素子(アソコソコ)なのだ。これだけで、この作品がどれだけインモラルか想像ができよう。

この阿蘇湖素子が、自らの溢れんばかりの性欲の赴くままにムチャクチャな行動をしまくるというのが、本作品のストーリーと言えばストーリーである。ある時は、動物園に行って自ら檻の中に入り動物たちとセックスを試みるし、ある時はサンタクロースの格好(と言ってもサンタの帽子だけで後は全裸。それと、両方の乳首に鈴を2つずつつけている)をして孤児院に忍び込み、子供相手に乱交を繰り広げたりする(子供はチン●ンが小さいから、いっぺんに3人の相手のものを自分のヴァギナに入れようとする)。また、ある時は男をチョコレート漬けにして固めて、ペニス部分をポキッと折ってポリポリとオイシそうに食べたりしてしまう。

時に、このムチャクチャな「ストーリー」さえ崩壊する。かなり最初の方の話でも、作者が作品内に登場して、「これでも食らえ」という捨てゼリフと共にやたらとリアルなウンコを大ゴマで描くという余りに破天荒なオチで締め括る話があった。中盤以降になると更に過激度が増し、氏が当時お気に入りであったアグネスチャンや林寛子といった実在のアイドルを登場させ、全身や顔に精液をぶっかけたりするのだ。今で言うと、上戸綾か石原さとみを実際のマンガに登場させて、顔シャシーンを描くみたいな感じですヨ? もう、ムチャクチャである以上に、怖いモノはないのかこの人は、と思ってしまう。(アグネスネタで散々メチャクチャ描いておきながら、その後で作者が登場し「アグネスなぐりこみにこないかなー」というセリフを言わせたりするからなー。しかも、その時に作者、なぜか全裸でチンコ握ってるし)

後期になると、「エロ」という括りさえなくなり、作品は更に混沌を深めていく。「構成」や「キャラ」といったマンガの約束事はおろか、「現実の世の中を構成しているありとあらゆる要素」すら無意味化される。男女の「性」の境目はなくなり、それどころか「人」としての物理的形は意味を持たなくなる。人間の絵画的表現として現されるはずの「キャラクター」は、全身を分断されたり、同じ形のものが何体も分裂したり、背骨一本だけで上半身と下半身が繋がったり、そして時には「何かドロドロとしたもの」になり、どこかへと消えてしまう。作品の起承転結などは存在せず、全く前後のつながりのないまま話が進んだり、唐突に終了したりする。

当時の読者たちは、吾妻ひでお作品を読み、もう何のことやら訳が分からなくなってしまった。だが同時に、その「訳の分からなさ」に夢中に引き込まれた。それは、もはや「ギャグ」というものですらなかった。「ギャグ」というのは、ちゃんとした「常識」が一方に存在した上でないと存在しない。「常識」との落差によって、「笑い」が初めて産まれるのだ。吾妻マンガには、そもそもそういった物差し自体が存在しなかった。何も存在しなかった。ただ、混沌だけがあったのだ。
この混沌状態を説明するために言われるようになったのが、「不条理」という言葉である。後年になって、吉田戦車などのマンガに対して「不条理ギャグ」という言葉が使われるようになった。だが、元々は吾妻ひでおのマンガに対して用いられた表現なのだ。

吉田戦車は確かに天才的なマンガ家で、「不条理ギャグ」と呼ばれた「伝染るんです」も傑作であることは疑いない。だが、吉田のマンガは4コマだからこそ「常識的世界観からの逸脱」というものが容易に行え、また読者も吉田の意図を理解しやすかったのだと思う。10頁以上にわたる作品で、雪だるま式に逸脱を繰り返し、最終的にはグチャグチャと混沌とした世界を描出する吾妻作品の持つ「不条理」とは、根本的に性質の異なるものである。吾妻作品の感覚は、「ギャグ」というよりは「凄み」といった方がより近いように思う。方々で指摘されているように、つげ義春の持つ世界観に近いものなのだ。

グチョグチョ、ヌトヌトと、かなりエロいことや常識はずれなことを描いているのだが、手塚治虫直系の頭身の低い、かわいらしい絵で描かれるために、それほどドギツイ印象は実はない。また、ガロ的な私小説的怨念が表現されることもないので、やっていることはムチャクチャにもかかわらず、不思議とポップで開かれた作風となっている。むしろ、作品やキャラクターを遠くから眺めているような、徹底的にクールな視線で貫かれている。作者がしばしば作品に登場することからも現れているが、これは私小説で観られるような、自己の分身を作品に投影させるといったことではなく、「作品を描いている自分」をすら客観視しようというクールな視点から産まれたものである。

このクールな視点のおかげで、「アグネスチャンを観て、彼女に顔シャをしたいというおぞましい欲望を持っている作者」の姿は、露悪的な自己表現ではなく、「ただのマンガの1ネタ」として扱われる。どれだけムチャクチャなことを描いたとしても、吾妻の持つかわいらしいキャラクターとクールな視点によって、そのいずれもが「ただのマンガの1ネタ」として扱われるのだ。別の言い方をすれば、「ポップスとして定着される」こととなる。

吾妻作品は「ギャグ」を目的として描かれていた。それが実際に「ギャグ」になっていたかはともかくとして(私は先ほど述べたように、「なっていない」と思うのだが)少なくとも、「ギャグ」を目的として描かれていた。
私小説的な自己表現」というのは、「自己に意味を持たせる」という考え方が根底にある。若者向けの青春小説などには、「自分なんてどうなったっていい」という冷めたセリフを言う輩がよく現れるが、あれも広義には「私小説的な自己表現」ととることができよう。「どうなったっていい」と言いながら、その実、根底に「自己に意味を持たせたい」という欲求があるからこそ初めてこのセリフが成立するということは簡単に理解いただけることと思う。
だが、「ギャグ」という行為は「常識からの逸脱」である。もっと踏み込んだ表現を用いれば、「意味性を剥奪する行為」である。

これは適度に行われれば、行き詰まる現実からの解放として、アハハと日々の苦しみを忘れさせてくれる一幅の清涼剤(ベタな表現でスマンが)として機能するだろう。だが、吾妻は過激だった。もはや「ギャグ」という枠を超えてしまうレベルで「意味性の剥奪」を行っていったのである。作品の世界観だけでなく、「マンガそのもの」「表現行為そのもの」「自己そのもの」さえにも、メスが入っていき、それらの意味性が剥奪されることとなった。その結果、この「やけくそ天使」を始め、他にどこを探しても見つからない傑作を幾つか我々は読めるようになった。

だが、マンガだけに留まらず、自分自身さえをも(マンガの中で)無意味化してしまった吾妻氏はいつしか現実世界との接点を見失ってしまった。早い話が、「何もかもがむなしく、どうでもよくなってしまった」。青春小説に現れるような人物の言うようなセリフではなく、本当に、心の底から。そうして、吾妻ひでお氏は、ある瞬間からマンガ界から完全に姿を消えてしまった。

と、考えるのは、やはり下衆の勝手な憶測なのだろうか。

阿蘇湖たんたんファンタジー①」という話で、いつもは無駄に元気いっぱいの阿蘇湖がぐったりと寝ている。それを見て、一緒に暮らしている小学生の進也が尋ねる。
「何してんの おねーちゃん」
それに対して、阿蘇湖はやはり寝転がったままこう答える。
「人生に 疲れてしまったの 
 さっきスズムシとゴキブリをつかまえたので
 なんとかこの二匹をかけ合わせてスズゴキつくろうとしているとき ふと
 すべてがむなしくなってしまったのだよ」
その後、変質者が家に忍び込み、阿蘇湖のパンツを脱がした後、そのパンツを燃やし、彼女の家をも燃やしてしまう。背中がごうごうと燃えているにもかかわらず、阿蘇湖はやはり寝転がったまま、力無くつぶやく。
「炎がへらへらとわたしのからだをなめているわ」

吾妻氏も、すべてがむなしくなってしまったのだろうか。吾妻氏の背中も、へらへらと炎が燃えていたのだろうか。それは、吾妻ひでお本人にしか分からないことだろう。今はただ、吾妻氏の復帰を喜び、また失踪することがないよう願うばかりである。