ローゼンメイデン 第1話〜第5話

oippu2005-08-28


再視聴。やっぱり面白いなぁ。何と言っても、ヒッキーで対人恐怖症、そのクセ家の中では実の姉貴には怒鳴りつけたり、家来扱いしたりする厨房を主人公であるというところが面白い。それこそ、人形が喋ったり、戦い合ったりするという本作品の基本的設定が吹っ飛んでしまうくらいに。

何が素晴らしいって、単純な「ヒッキーの更正ドラマ」ではないところだろう。本作品では、もちろん「人間同士の関係性」にフォーカスがあてられるが、それは「社会全体」に対してではない。あくまで「家族」または「疑似家族的共同体」にのみあてられる。主人公ジュンの1つの孤独な魂が、真紅ほか、様々な人形たちと「契約」を交わすことで、ジュン、姉のノリ、そして人形達を含めた新たな「家族」が再構築されていく………その結果として、ジュンが「人間らしさ」を取り戻していく、というのが本作品の大きな流れとなるのだろう。

だが、このドラマはあくまで「家族」が対象であって、「社会」は含まれない。ヒッキーとは、「社会」とかかわることを拒否した者たちのことであり、したがって「社会」を描くことなしに「ヒッキーの更正ドラマ」はあり得ない。しかし、本作ではその描写は最小限にとどめられている。いや、むしろ「社会」または「社会の中で生きること」をポジティブに捉えていない節がある。特に第2話で、社会(学校)で立派に学級委員長を務め、クラブ活動もきちんと行い、親にもいい子であったトモエが、結局、雛苺を支えきれなくなってしまったことが実に象徴的なことに思える。精神年齢が4〜5歳あたりの幼い性格をした雛苺は濃密なコミュニケーションを必要としていたが、大半の時間を学校で過ごし、また自分一人で彼女を抱え、他の誰にもその存在を明かさなかったトモエにとって、雛苺を充分に構ってあげることはできなかったのだ。

だが、ヒッキーで、一日中家に籠もりっきりのジュンならば、雛苺ほか人形達とずっと時間を共にし、濃密なコミュニケーションを交わすことが可能なのだ。逆説的だが、「擬似的共同体」が成立しえたのはジュンがヒッキーだったからということになる。姉のノリも、クラブが終わったら友だちの約束を振り切ってまっすぐ家に帰ってくる。「社会」よりも「家族」を優先しているのだ。

ともすれば説教クサい金八話になるところを、丁寧なドラマ描写と上品な演出で一級の娯楽品に仕上げている。作画はやや荒さもあるものの、気になるほどではない。音楽の光宗信吉の伴奏が場面場面をきちんと盛り立てていく。
「金色のガッシュ」の設定と瓜二つの「アリスゲーム」の展開などより、ジュンがどうなっていくかの方がずっと楽しみである。(テレビの方では次週で最終回となるようだけど)