映画「アダプテーション」

オタクによる、オタクのための、オタク肯定映画。
と思うのはおそらくオレだろうけど、少なくとも「それ」をこの映画は目指していたはず。

オタクとは何か。それは「好きなものは好きだからしょうがない!!」という感覚に忠実に生きる人のことである。大衆に迎合するでも、アートを気取るのでもない。それらは結局のところ、「他人から認められる」ことを第一義としてしまうことになる。それも悪くはないのだが、しかし最も大事なのは、「自分がそれをして楽しいか否か」にある。たとえ認められなかったとしても、自分が楽しければそれでいいじゃないか。それが結果として「オタク性」になると僕は思う。

で、この「アダプテーション」なんだけど、もういろんな要素が並列でてんこ盛り。ウディ・アレンばりのメタ映画であるかと思えば、地味ぃな小説をそのままなぞるような物語が同時展開し、それが最終的には一つの流れになり、追いつ追われつのハリウッド的サスペンスものへと移行するのだ。ハリウッドも、ウディ・アレンも、地味ぃなルポ記事も、双子ネタも、「セブン」のパロディーも、全てが並列で扱われている。アート系、ハリウッド系いずれかに偏るのではなく、どっちも好き!どっちもオモロい!だからどっちも取り入れます、という分裂症気味な構成をこの作品は確信犯的にとっているのだ。

何故わざわざそんなスキゾなことをするのか?ぶっちゃけ言ってしまえば、オモロいから、となる。も少し真面目に話すならば、そのセリフは物語の最後近く、兄のドナルドのセリフがその理由を的確に表している。

「愛されるより、愛する方が大事だ」

だからこそ、あんまグチャグチャ考えず、自分のパトスに忠実に、自分の書きたいように脚本を書いちまえよ!ってのが作品のテーマなのだ。それ以上も、それ以下のテーマもない。

だが何も闇雲に書き進めるのは良くない。ということもこの映画では示唆されている。双子の兄のドナルドは脚本学校に通って、先生から「脚本の書き方のコツ」を教わる。その「コツ」に従って書き進めていくと、何と映画会社で高く認められ、ドナルドは弟チャーリー同様の脚本家となってしまう。

兄チャーリーは脚本に行き詰まり、最初はバカにしていた脚本講座に顔を出し、その先生に相談する場面がある。そこで先生はとっておきのアドバイスをしてくれる。

「どんなダメな映画でも、最後の場面さえよければ素晴らしい映画になる」

ところが、この「アダプテーション」という映画自体が、最後の場面だけやたらハリウッド的エンターテイメントを狙った映画なのだ。映画全編が、キチガイのラン学者の話と、行き詰まってはオナニーに逃げ込むダメダメ脚本家という、何ともスッキリしない話なのに、最後の展開だけがスッキリするくらいに「都合がよく、薄っぺらいハリウッドもの」なのだ。脚本家二人とラン学者&ジャーナリストのチェイスなどは、まさにハリウッドお得意の「逃亡もの」そのままである。すなわち、陳腐そのもの、ということだ。

また、ここぞ!という都合のよいタイミング(主人公チャーリーがラン学者に銃で撃たれそうになる場面)で、ラン学者が沼にいるワニに喰われてしまい主人公が一命をとりとめる、という都合のよい展開はどうだろうか。兄弟が二人で息を潜めて隠れている時に、兄ドナルドが唐突に語り出す昔話のわざとらしさもさることながら、それ以上に作品のテーマをペラペラと人物に語らせるというあざとい技法も、陳腐を通り越して卑怯という他はない。

そして、それらが全て確信犯的に行われているのが、この映画のスゴいところなのである。これだけ分裂症的な映画なのに、それでも最後の場面だけチェイスものを入れたらエンターテイメントっぽくなるでしょ?後、人物にテーマ語らせてやったら少し分かりやすくなったでしょ?という監督の底意地の悪さが、最後の展開の陳腐さからは透けて見えるような気がしてならない。つまりえーと、メタメタ映画ってことか?うーん、厄介だな。確かに、この映画は厄介な映画であることだけは間違いない。そして同時に、やっぱり悔しくも非常に面白い映画である、ということも間違いないと思う。まったく、オタク万歳!!である。もっともオタク万歳!!と思ってくれた人は、一般観客も、批評家スジも、オタクたちの中にもほとんどいなかったと想像されるのだが。