映画「アバウト・ア・ボーイ」

少し間を置いただけで、この書き込み量。我ながらどうよ?って思うけど、とりあえず観たものについては全て記しておきたいので、手加減せずに記しておきます。

木村拓哉主演のドラマが「木村拓哉木村拓哉による木村拓哉のためのドラマ」であるように、ヒュー・グラントの映画は、もはや「ヒュー・グラントもの」というジャンルを作りたくなるくらいにヒュー・グラントそのものである。そのような思いをさせてくれるような役者と言えば、他にアーノルド・シュワルッツェネッガーかブルース・ウィルスくらいしかいない。という意味で、2004年の現在においてたいへん貴重な存在であると言えよう。

いやー何つうか憎めないんだよね、この人。女好きで、キザで、ニヒルで、毒なセリフを吐いて、色男で、でもどこかだらしなく、情けない。この映画でも、親のヒット曲の印税で悠々自適の無職生活を送る男を演じているのだが、って言うか演じていない。役=ヒュー・グラント自身!という感じがスゴくする。「僕は何もしていない。何もない人間だ」というセリフを言って、それがキュートに聞こえてしまうのだから、何ともお得なキャラであると言えよう。

そう、これはダメ人間の物語だ。ヒュー・グラントと仲良くなる男の子(こいつがまたブサイクで、それゆえにカワイらしいんだ)も世間からズレまくった変人だし、その母親は自殺癖がある。そしてヒュー・グラントは女を食い物にする以外は日がなテレビを観るかビリヤードしかしない重度のヒッキーである。

この映画の素晴らしいところは、所謂成長物語ではないところだ。ヒューが仕事を見つける訳ではないし、男の子は目当ての女の子と恋人関係になる訳ではない。

クライマックスの場面で、また自殺の兆候が見え始めた母親を元気づけようと男の子は「kids rock」に出演する。その際に彼が選んだ歌は、母親と一緒に歌ったロバータ・フラックの「優しく殺して」なのだ。ヒューに最新流行のヒップホップを教えてもらい、男の子自身も好きになったはずなのに、「kids rock」の演目で選択したのは、母親と昔からよく一緒に歌っていた歌である、というところに本作の正直さを感じる。そうだよなぁ。人間、そんな変われる訳はないもんなぁ。伴奏なしで一人で歌を歌う男の子を見ていられなくなったヒューは、子供のギターを奪い伴奏で男の子を助けてあげる。まー一応、場は少しだけ暖まってメデタシメデタシになるんだけど、そこで終わらせないところがやはり、この作品の正直なところだ。ヒューは、歌が歌い終わったにもかかわらず、陶酔してギターを掻き毟るのだ。当然ブーイングが起こり、ヒューはなんか投げられて、頭に命中する。

僕は、ヒューがバリバリなロックorヒップホップなアレンジをかまして、大盛り上がり大会にする、という展開を予想していた。しかし、ギターの演奏はごくごく大人しいものであった。(だから、ヒューの父親は作曲家だったけど、ヒュー自身は女にモテるアイテムの一つとしてギターを少し憶えただけに過ぎないことが証明される)それどころか、歌が終わった後、ヒューは自分から失笑とブーイングを買うような暴挙に出たのだ。僕はビックリすると共に、共感すら憶えてしまった。ヒューは自ら選択して失笑を買ったのだ。おそらくは、自分自身のダメさ加減を確認するために。

この作品は成長物語なんかではない。主人公のヒューも、男の子も、「ほとんど」変化をしている訳ではない。しかし、男の子は自分が周囲から浮いている部分を自覚し、ヒューは自分がダメな男であることを自覚した。だからといって何が変わる訳でもなく、根本の部分は二人とも変わっていない。しかし、自分自身を把握し、認めることで、二人は他者を認めることができ、その結果、友達ができたのである。そして、二人は幸福になったのだ。それ以上に、何が必要というのだろう?

「ヒッキー更正映画」と呼ぶべきだろうか?少しヌル過ぎるきらいはあるけど、こういった作品は決して嫌いではない。ヒュー・グラントの持つ微かな毒としみじみとした情けなさは、こういった「ヌルく優しい映画」に最低限のリアリティと説得力を与えるのに成功している。大した存在感であると思う。