「めぐりあう時間たち」

構成自体は予想していたほど複雑ではないが、テーマがかなり難しい。

自我と関係性の対立。なのではなかろうか。自分の人生を生きること=自我のために生きる、そして、人のために人生を生きる=関係性の中に生きる。この両者の間で葛藤する登場人物たちのそれぞれの人生を丹念に描いていく映画だったように思う。

ローラ・ブラウンとヴァージニア・ウルフの置かれた環境は似通っている部分がある。家庭生活のささやかな幸福を感じながらも、その生活に疲れ、子供を置いて逃げ出してしまうローラ・ブラウン。神経を患ったために田舎に引っ越してきたが、その生活を疎んじ、大都会ロンドンへ逃げ出そうとするヴァージニア・ウルフ

二人は具体的な理由があって自分たちの生活を嫌がっている訳ではないだろう。端から見たら彼らは充分に幸福な生活を送っているはずである。しかし、彼らは自分たちの置かれている環境から逃げ出そうとした。何故か。

ローラ・ブラウンが自殺を果たそうとするのを思いとどまり、何事もなかったかのように家に帰ってきた時に、ローラの旦那が子供であるリチャードに語って話す話はこうだ。自分は学校にいる時、ローラ・ブラウン以外のある女性に恋をしていた。その女性がいたからこそ、戦争を乗り越えることができた。もしこの場にローラ・ブラウンではなく、その女性がいたらと考えたことがある、と。

ローラ・ブラウンの旦那ダンはローラを愛していない。勿論、ダンはいい父親として描かれている。だが、「いい父親」であるかどうかは、「愛情」とはまた別の問題だ。そして、ローラもダンの気持に気付き、彼女自身もダンへの愛情を持てなくなってしまっている。そのことがローラがダンのベッドへなかなか行こうとしていない場面からはっきり現れている。

ヴァージニアも、ローラも、愛情に飢えている。だからこそ、彼らは「普通の生活」から逃げ出そうとしている。そして、ダンは現在の生活に満足しきっているが、だが「現在」を生きている訳ではない。彼が生きているのは、高校生の頃に彼がある女性に恋していたその時代だ。彼はその女性への想いを未だに抱え、それと共に生きている。その「時間」の中にこそ、彼は生きているのであった。ローラ・ブラウンが家庭を逃げ出したのは、ダンと「時間」を共有していなかったためである。

ヴァージニアが後一歩のところでロンドンへ出立するのを思いとどまったのは、ヴァージニアの旦那であるレナードの優しさがあってこそであろう。二人は、同じ「時間」を生きることができていたのかもしれない。

そして現代のカップルであるクラリッサとリチャードは、3組の中で最も哀しいカップルであろう。詩人リチャードのために人生を捧げるクラリッサ、そしてクラリッサのために残りの人生を生きるリチャード。二人が生きているのは同じ「時間」である。だが、二人が生きているのは「現在」ない。二人が生きているのは、「若い頃に二人が恋に落ちたその瞬間」である。だからこそ、二人は互いに出会った時にだけ「生きている」ことを感じることができ、にもかかわらず二人は「現在」において結ばれることはできない。彼らが幸福だった時間は、すでに「過去」となってしまったのだから。

リチャードは「家族」という関係性(正確には旦那との関係性)から解放されるために家を出ていった母親ローラ・ブラウンのことを思い出し、涙を流す。その後、リチャードのアパートに現れたクラリッサの前で、愛を告白し、そして、窓から身を投げ出すのだ。おそらくはクラリッサを、自分自身を、関係性から解放させるために。

映画のラストは以下のヴァージニアのセリフで締め括られる。
「私たちの間には、愛が流れている。
 そして、私たちの間には、時間が流れている」